華道家 新保逍滄

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2023年11月22日

生け花の終焉:外国人に生け花を教える難しさ(7)

 


生け花を外国人に教えながら、どうしたらもっと上手になってもらえるのかな、とよく考え、悩んでいます。このブログでも何度も書いてきた通りです。

おそらく海外で指導されている方なら、多くの方が日本人に教える時とは違う難しさがある、と感じておられるのではないでしょうか。そのため指導方法にも様々な工夫を凝らすことになります。

一つの仮説として「無理なのではないか」と考えてはどうかとも思います。最近、ふと思い至ったことです。

もちろん、外国人全員が無理という意味ではありません。少数の方ですが(とはいえ、日本人と比べ、遥かに多くの方々)、いくら続けても生け花の本質、つまり、花の生命感や作品の中の秩序性(調和)といったものが体現できない方があるのではないか、と思うのです。

そのことを無視して、「努力すれば必ず生け花の詩性が表現できるようになるから頑張れ」と努力を強いるというのは、不毛ではないかと思います。それはまるで、ディスレキシア(失読症)の子供に、努力すれば読めるはずだと、努力を強要するようなものではないでしょうか。

そのように考えると、生徒に対する態度も変えていくことになるでしょう。うまく作れないのは努力不足ということではないのではないか。楽しんで続けてもらえればいいのではないか、と余裕のある態度で指導に臨めます。

それはそれでいいと思います。展覧会などでも、あの方はいつも突拍子もないもの作っているねと、評されるような方もご愛敬でいいのでしょう。海外のいけばな 展ではよくそうした光景に出くわします。

ただ、ひとつ気がかりなのは、生け花の本質を体得できない方が、「生け花マスター」「教授」などと称し、生徒(時に日本人を含む)を抱え、活躍されるという状況です。そのような方の作品に対し、「それは生け花とはいえませんよ」などと言えるわけもありません。

ただ見落としてはいけない点は、そのような方々の安易で奇妙な作品が生け花として受け入れられる、ということは、そのような市場が存在するということです。お金を払う方があるということです。それはそれで大した事です。もちろん、生け花が何かをきちんと伝えていく努力をすることで、偽物(失礼!)が淘汰され、本物が生き残るという状況になれば理想的でしょう。

しかし、私がさらに考えたい点は、外国人の作る異化したイケバナを安易に批判していいのか、ということです。目くじら立てる必要があるのか?確かにそれは生け花とは言い難いものかもしれません。しかし、もう少し寛容になり、生け花とは別個の存在として市民権を与えては?という考え方もできるのではないでしょうか。

ここで私が連想するのは、マインドフルネス瞑想です。仏教の禅から発展した瞑想方法で、心理的な問題改善から仕事の効率化など様々な効果を生んでいます。心理療法の世界では市民権を得ていると言ってもいいでしょう。

そのマインドフルネスに対し、禅擁護派が「それは内省的でない。いいとこ取りで、本質を外れている。修行にならない」などと批判するならば、それはおかしいでしょう。もちろん、禅療法だと言って、人を集めるという状況であれば、苦情も出てくるでしょうが。禅を西洋化したもので、禅とは独立したものです、目指しているのは別なんです、という前提で、活動される以上、批判のしようもないはずです。

ということは、海外で変容したイケバナにも、「植物造形」など別の名前を与え、独立してやっていただくというのが一つの解決策になるでしょう。異文化交流の結果、発生した文化変容として認めてしまおう、ということです。もしかすると、そこから新しい現代芸術が誕生することになるかもしれません。先の例えを思い出すと、マインドフルネスの成功は、禅と決別したからこそ達成できたのだという見方もできるでしょう。同じようなことがイケバナにおいても生じるかもしれません。

しかし、現状はそうはなっていません。おそらく生け花と称し、イケバナを提供していくことにメリットがあり、権威や力を得られるからでしょうか。もしかすると、禅に対しては、敬意と遠慮から、自らの異質性を認めようということでしょうが、生け花に対してはそのような遠慮は不要だろうということかもしれません。生け花の定義自体、曖昧ですし(これはまた別の問題になります)。

日本では生け花人口が極端に減少しているということです。海外では生け花とは言い難いイケバナが増産されていく。この結果、生け花は終焉を迎えるのか。

しかし、実際にはそのようなことはないでしょう。生け花は脱線しながらも、発展し、続いていきます。興味深い活動をされている華道家に出会うたびに、そう確信します。

私たちのメルボルン生け花フェスティバルにも生け花再生への願いをこめています。


2023年9月20日

自由花の教え方

 


このブログでは外国人に生け花を教えるのは難しいという話を何度もしてきました。しかし、そうした問題に拘って考えるという方はあまり多くはないのかもしれません。考えだすと大きな問題になってしまうので、面倒なのかもしれません。

生け花が、その最も重要な部分が理解されずに海外に広まるということ。まるでフラワーアレンジの一種として受け入れられ、教えられているということ。

「金になればいいんだよ。黙っていろ」というような方もあるでしょうが、日本文化が誤解され、その本質が理解されないまま広まっているということに、何か納得できないものを感じる、という方はないものでしょうか。海外における生け花の現状に不誠実なものを感じるという方はないものでしょうか。

最近、ある生け花展に出かけました。出展者はほとんど外国人です。ひとにぎりの優れた作品があるのに、大部分の作品には何かが欠けているのです。何だろう?

それは、生命感。生け花の生命です。

どうしてこのような作品になるのだろう?

ああ、もしかすると、自由花を学ぶ方法に問題があるのかもしれない、と思い至りました。自由花のお手本があり、そのお手本のデザインを真似しているのだろうけれど、お手本の本質は見落としているのではないか。

その本質とは、生け花の生命、あるいは詩性。

すると、自由花の教え方では、基本型を教える場合のように外に現われたデザインやスタイル中心で教えてはいけないのではないか。大部分の生け花コースは、自由花の指導においても安易な形態重視の指導を繰り返していますが、それでは生け花の本質は教えられないのではないか。西洋アレンジメントならそれでいいのかもしれませんが。形態に注目させるのではなく、もっと生け花の内的な機構に注目させるような教え方でないといけないのではないか。

そんなことを考えて、生け花道場の指導方法ももっと吟味していこうと思ったのでした。以下のような広告文を英語で書いて、Googleで日本語に翻訳してみました。

Application opens in November 2023. Book from our Schedule page. 

Visit our Curriculum page to find out why our one-year Ikebana Dojo program would help all ikebana students and teachers.  

We believe that there is a gap between basic styles and freestyles in many ikebana courses. After learning basic styles, students are encouraged to make freestyles such as "vertical arrangement" or "horizontal arrangement".  However, where is the connection between the basic and freestyles? The approach used in such courses can be called a style-based approach to freestyle ikebana. Such courses make many students confused, and will never teach the most important aspect of ikebana; meditation. 

Unfortunately, many ikebana practitioners, in particular outside Japan, are learning freestyle ikebana using the style-based approach, copying good "designs"(or something visible), and producing ikebana-like works that lack vital energy. The style-based approach is useful in learning basic styles because you can usually follow diagrams to make a good ikebana. 

To make a good freestyle ikebana, however, you need to develop a different competence to see and actualise invisible principles through meditation. Those ikebana principles are not easily visible but recognizable if gazed at by a selfless mind. We call such an approach the principle-based approach, which we use in Ikebana Dojo. We are trying to teach ikebana as art not as design.   

Our courses intend to teach the true essence of ikebana.  


上記の英語をGoogleの翻訳機能で日本語に訳してみました。下記の通り驚くほど性能が向上していますね。


申し込みは 2023 年 11 月に開始されます。スケジュール ページからご予約ください。


私たちの 1 年間のいけばな道場プログラムがすべてのいけばな生徒と教師に役立つ理由を知るには、カリキュラム ページをご覧ください。


多くのいけばなコースでは、基本スタイルとフリースタイルの間にギャップがあると私たちは考えています。基本的なスタイルを学んだ後は、「縦配置」「横配置」など自由なスタイルを作っていきます。しかし、ベーシックとフリースタイルの関係はどこにあるのでしょうか?このような講座で行われるアプローチは、フリースタイルいけばなに対するスタイルベースのアプローチと言えます。このようなコースは多くの生徒を混乱させ、生け花の最も重要な側面を決して教えません。瞑想。


残念なことに、多くの生け花実践者は、特に日本国外で、スタイルベースのアプローチを使用してフリースタイル生け花を学び、優れた「デザイン」(または目に見えるもの)をコピーし、生命エネルギーに欠ける生け花のような作品を制作しています。スタイルベースのアプローチは、通常は図に従うことで優れた生け花を作成できるため、基本的なスタイルを学ぶのに役立ちます。


しかし、優れたフリースタイル生け花を作るには、瞑想を通じて目に見えない原理を理解し、実現するための別の能力を開発する必要があります。これらの生け花の原則は、簡単に目に見えるものではありませんが、無私な心で見つめれば認識できます。このようなアプローチを私たちは原則ベースのアプローチと呼び、いけばな道場ではそれを採用しています。


私たちのコースは生け花の真髄を教えることを目的としています。

2023年3月3日

上品さという常識の言語化を

 

生け花を嗜むということは、特定の流派に属するという以前に、日本文化に関わるということです。日本文化を学ぶ場合、それは同時に上品さを身につけていくことでもあるでしょう。これはあまりに自明で、基本でもあるため、わざわざ言うまでもないこと、ではないでしょうか。

生け花をやっている下品な方というのは通常あり得ないわけです。私などでも公の前で生け花のデモをやるとなれば、言葉遣いはもちろん、服装にも気をつけます。不潔ないでたちで花をいける花道家など見たことがないでしょう。セクシーな衣装で花をいける、などというのはありそうですが、これも実際には見たことはないですね。たとえあったとしても、「まあ、冗談だろう」ということになります。

それは、日本人にとってはあまりに自明すぎて、わざわざ口にする必要もないというレベルの常識です。おそらく日本の伝統文化の根本では、精神的に高貴で洗練された方(あるいは天皇陛下かもしれませんが)とのつながりを想定してきたということと関係があるのかもしれません。

では、この上品さへの志向を外国人に理解してもらっているでしょうか?

上品さをどう英訳したらいいのかな、と考えていたとき、偶然見つけた言葉があります。

Be Kind and Courteous. 

親切かつ礼儀正しくあれ。ぴったりですね。

華道流派によっては外国人の生徒に対しても行動規範や精神的な指標を示す場合もあるでしょう。さらに最近は、パワハラ、モラハラ、いじめなどが生じないよう規範を作る場合も増えていると思います。そんなものに黙って耐えるなどという時代ではありません。問題になれば、その流派の組織のあり方が問題になるはずです。

Be Kind and Courteous. 

「上品であれ」ということは、生け花に関わろうという日本人にとっては暗黙の了解事項でしょうが、外国では「生け花をやる以上、上品であろうとすることは必須の前提条件だよ。上品さを備えていない人がいい生け花を作れるはずがないんだよ」と、言語化してきちんと伝えていくことが必要ではないかと思います。

教育や年齢や経済状態などにかかわらずどなたにも生け花を嗜んでいただきたいものですが、他人の悪口ばかりで、上品さなどに関心がないという方はできれば関わってほしくないものです。学歴や職歴といった社会的な評価が得られなかった人たちが、自分の評価(Self-esteem)を補償するために、生け花の教師資格を利用する場合もあるかもしれませんが、上品さという当然の前提を欠いている人が集まれば、いじめや嫌がらせが横行するということになりかねません。

生け花作品は作者の人格の延長です。品のある作品に出会いたくて、上品な人柄に触れたくて、私たちは展覧会にも出かけるわけです。

海外における生け花グループの会員心得の最初に次の一言を明記すべきだと思います。

Be Kind and Courteous.

これがあるとないとで、グループのあり方が大きく変わってくるのではないでしょうか。

2023年2月24日

我慢・我慢

 


海外で生け花の先生方と接していると、ここは我慢だな、と感じることが時にあります。きっともうすぐ状況は変わってくる、と思ってはいますが。

先生方への要望はあります。
しかし、非難でも、愚痴でも、嘲弄でもなく、「もう少し勉強なさいませんか」という要望を伝えるのはなかなか難しいものです。

例えば、大変親切な生け花の先生がいらっしゃいます。
私のためにわざわざ時間を割いて、お話して下さいます。
「いいかい、生け花というのはね、云々」
「天地人と言って、宇宙を表すものでね・・・」
そこで、私が「それは、歴史的には、象徴的表現を説明的表現と勘違いしたもので」と口を挟むや、「そこは大事じゃない」と私を制し、ご自分の御高説を滔々と話し続けられるわけです。

失礼ながらこの方はいけばなに関する英文書籍を2、3冊は読んでおられると思います。一般向けのガイドブックのようなものが出ています。
しかし、それで生け花の大家のようにお話をなさるには、相手があまり良くない。
「これを読んで勉強しなさい」とご自分の書かれた2ページほどの生け花論を手渡して下さいました。

もちろん、私は礼儀正しいですから、黙って聞いて、お礼申し上げましたが(それでなくても傲慢な奴と思われかねない)、いろいろ考えていました。

・ 早く終わらないかな?(失礼)
・ 私の論文、ひとつでいいから読んで欲しいな。まずは、"Ikebana in English" かな。
・ いけ花文化研究ならエッセーも論文も無料で読み放題なのにな。
・ 国際いけ花学会の例会に参加されれば、もう少し深い知識が得られるのにな、とか。

ただ、数十年前と比べ、現在、格段に情報量も増え、情報へのアクセスもしやすくなっています。生け花に対する一般の人たちの理解も深まっています。間もなくもう少し努力し、勉強しないと先生としてやっていくのが困難という事態になるはずです。生け花の世界では通常の教職と異なり、専門知識が少なくとも技術さえあれば教授とか立派なタイトルをいただけるようになっているようですが、そのメッキがすぐに剥がれるということになるでしょう。

例えば、昨年、ある新聞に私のことが取り上げられました。
短いインタビューでしたので、あまり期待していなかったのですが、なんとも深い記事に仕上げていただきました。専門外の方でも生け花に対し、これほどの深い理解を示しておられるのです。

ですから、あともう少しの我慢だなと思っています。

国際いけ花学会の次回例会が3月25日に開催されます。
内容は生け花教師どなたにとっても(流派に関わらず)とても価値のある内容になるはずです。ご自宅で聴講でき、しかも無料です。
ぜひご活用下さい。

2023年2月23日

『専応口伝』における「面かげ」の形而上学

 


新しいエッセーが出版されました。よろしければリンク先からダウンロードして目を通していただければ幸いです。今回は日本語版と英語版両方が出版される予定ですが、以下のリンクは日本語版です。


新保逍滄(2023)『専応口伝』における「面かげ」の形而上学International Journal of Ikebana Studies,10, 21-28.

https://doi.org/10.57290/ikebana.10.0_21


『専応口伝』についてはこのブログでも何度も書いています。そこにはどうも謎の部分があって、私にとってはとても気になる問題でした。ようやく納得のいく形で出版できたので一安心です。

生け花についてあれこれ考え、どうして外国人に教えるのはこうも難しいのだろうと日々悩んできたことの延長線上にこの論文ができたように感じています。「生け花とは何か」ということが、ここで自分なりに了解できたようにも思います。そしてここからいろいろな問題にまた発展していけるのではないかなと。

日本の古典は私の専門分野ではないので、様々なご意見、ご批判をいただくことになってしまいましたが、しばらくは、この問題に戻ってくる必要はないでしょう。その点でも安心です。

生け花の定義に関わる問題なので、いろいろ批判されたり、議論が起こるということになれば、なおありがたいところです。

要旨

『専応口伝』序文にディスコース分析を応用し、従来あまり注目されてこなかった序文中の主要語「よろしき面かげ」の重要性について考察してみたい。「よろしき面かげ」はもうひとつの主要語「をのずからなる姿」とともに形而上学的な文脈で理解されるべきである。「をのずからなる姿」がいけ花を大自然の象徴的表現と定義したのに対し、「よろしき面かげ」はいけ花の始原についての定義と解釈できる。専応の教えは存在の無常性を瞑想を通じて認識することで、草や花の純粋な本質を捉え、それをもとにして挿してゆくものだということになる。さらにこの点において専応のいけ花の思想は日本の美意識の典型的な内的機構とも強い関連性があることが明らかになるのである。

2022年11月9日

ラーメン屋と生け花と存在論


 日本で美味しいラーメンを食べるというのは、海外に住む私にとって大きな楽しみの一つでした。最近は、メルボルンでも美味しいラーメン屋があちこちにできていますので、それほど大きなことではなくなっていますが。

 先頃、東京に短期滞在した時、珍しくまずいラーメンに当たってしまいました。これはおかしいと翌日、また別のラーメン屋に出かけたのですが、こちらもはずれ。2日続けてがっかりすることになり、もうラーメンはいいや、ということで東京を離れました。

 自分がラーメン屋だったら、と考えてしまいます。とても競争の激しい業界ですが、私はきっと繁盛店を目指します。どうしたらもっと美味しい、人気のラーメンを提供できるかと、勉強し、常に改良していくのではないかと思います。しかし、一方、このラーメンは師匠から学んだ伝統の味なのだ、一切変えたりしない、というような立場もあることでしょう。そのせいで人気がなくなり、店は衰退し、潰れるかもしれません。本当の味が分からない客がいけないのでしょうか?客のニーズを尊重しない店主が問題なのでしょうか?
 
 ここで考えた繁盛店と衰退店の典型的な態度の違いこそ、私が生け花を海外で教えていこうという時に、思い悩む問題に関わってきます。どうも私の行き方は繁盛店の行き方ではないような気がしてくるのです。

 様々な方があり、一般化はできないのですが、ある共通の問題を抱えている方々があります。しかし、その本人たちにここが問題ですよ、と指摘することも憚られる、デリケートなものなのです。下手に指摘しようものなら、ハイランキング(高位)の方々であることもあり、大変な不興を買うということにもなりかねない。一言で言えば、彼らの生け花作品は「生きていない」のです。造花で作ったような生け花なのです。これをどういうふうに伝えていったらいいのか、と大いに悩むところです。

 海外における私の立場は上で考えた衰退店のようなものかもしれません。こんなまずいもの食えないよ、と相手にされない。時流に合わないものとして、客に見放され、廃れていくしかないのかもしれません。いろいろな状況を黙って見過ごすしかないのかもしれません。あるいは、まずいものをうまく工夫して、食べさせるということが可能でしょうか?

 一体何の話か、と思われるでしょうが、またも専応口伝の「よろしき面影をもととして」挿していくという、生け花本来の制作態度についての解釈の話なのです。生け花の元になるのは、心で観た草木の「面影」であって、肉眼で見た草木の「姿」ではないのです。草木と対峙して、そこに何を認めるか。それが西洋人と東洋人では違うのではないか、その違いが生け花における差異となっているのではないか。

 仮に西洋人の生け花に「自己(小さい自我)」を表しているだけ、「自然」や「生命」が表れていない、と感じることがあるとすれば、その原因は精神伝統の違いによるものではないか。この人は、花を「ただの材料」「ただの花」としか見ていない、花のよろしき面影まで瞑想して作っていない、ということが、見て分かるようになってくると、生け花指導は別の段階に入ってきます。そのために、様々な苦労をすることになります。生け花を楽しく鑑賞できなくなります。

 要するに、西洋人が本当に生け花を学ぼうというのであれば、東洋人の精神伝統を体得する必要があるのではないか。西洋の精神伝統の立場で生け花を学んでも核心にはいたれないだろうと思います。生け花は花の「存在」からしか立ち現れませんが、その花の「存在」に直面することができないからです。

 井筒俊彦は「意識と存在」の導入部で、西洋の精神的伝統の一つの典型として、サルトルの「嘔吐」を取り上げ、東洋的精神伝統と対比しています。嘔吐の意味するものは「『存在』の無分別的真相をそのまま本源的な姿で表層意識的に受け止めようとすれば、元々『・・・の意識』であるものが『・・・』を失って宙に迷い、自己破壊の危機に晒されること」だとしています。

 それに対し、東洋の精神伝統では、このような場合「嘔吐」に追い込まれはしないとしています。「絶対無分別の『存在』に直面しても狼狽しないだけの準備が初めから方法的、組織的になされているからだ」というのです。生け花を本当に学ぶということは、この準備を学ぶということが前提になっているのだろうと思います(私が提唱する千日挿花行は、この準備という性格があるのではないかと思っています)。

 最近、生け花のデモを披露してくれなどというリクエストがありました。海外の「高位の」華道家だと自称される方々が聴衆なので、生け花における瞑想とは、などと説明しようとしていたら、断られました。これはどうも衰退店のやり方であるようです。デザイン重視の繁盛店のやり方でやってくれということらしいのです。そんなデモでは、意味がないなあと不本意ながらも、どんな状況でも機嫌よく、ベストを尽くしていくという心がけを持ちたいものです。

https://www.shoso.com.au 

2022年5月18日

生け花とは何か?(1)


山根翠堂『花に生きる人たちへ』の抄訳が出版されました。以下から無料でダウンロードできます。生け花のあり方を考えたい方々は多くの示唆をいただけることでしょう。
海外における生け花の問題点を考えてきた私にとって、是非とも紹介したい文献でした。










2022, International Journal of Ikebana Studies, Vol.9, 76 - 78
This is a translation of selected passages of “Hana ni ikiru hitotati he (Message for those who live for flowers)”(1967) by Suido Yamane (1893 - 1966). His insight in ikebana is inspirational for those who wish to look deeply into what ikebana is, and for those who are not satisfied with prevailing discussions about ikebana.

https://www.shoso.com.au 



Ikebana News 

31 May 2022: Deadline - Hanadayori, Ikebana by Request 


4 June 2022Ikebana Introduction


10 June 2022: Ikebana Workshop at Richmond Library 


18 June 2022Ikebana Introduction 


18 & 19 June 2022: Ikebana Display for Villa Alba Open Day  


1 July 20221000 Ikebana Challenge 


31 August 2022Ikebana Workshop at the Pub


10 September 2022: Ikebana Performance with Paul Grabowsky

 https://www.ikebanafestival.com


10 & 11 September 2022: Wa Melbourne Ikebana Festival. https://www.ikebanafestival.com

 



2022年4月29日

新論文が掲載されました

 


生花道場に関する研究報告が出版されました。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ikebana/9/0/9_19/_article

外国人に生け花を教えるのはなぜこうも難しいのだろうと、数年間考え続けてきたことが、ようやく形になったように感じます。

A Proposal for Online Ikebana Training: Developing and Evaluating 
a New Curriculum to Teach Ikebana as Meditation 

 Shoso Shimbo

Abstract

The first section of this study is a proposal for a new online ikebana curriculum. Since there is little educational research in ikebana, the proposal is largely a hypothesis based on the author’s experience. New attempts were made to develop a curriculum that values meditation rather than self-expression in the process of creating freestyle ikebana. The second section is a pilot study to evaluate the newly developed curriculum based on a short eight-item survey. Quantitative analysis shows that this curriculum helps advanced students (more than 6 years’ experience in ikebana) to improve their meditation, and qualitative data further confirms that their meditative experiences may not always be a positive experience for the individual, but it’s meaningful nevertheless. Results suggest that resources including video tutorials at the orientation stage contributed to encouraging the advanced level students in particular to meditate more effectively during the creative process of ikebana. 


2022年3月25日

千日挿花行

 


千日挿花行を提案し、広報中です。

生花を一日一作、千日続けてもらおうというものです。モデルは千日回峰行。その命がけの厳しさの足元にも及ばないでしょうが、生花修得には、多少の厳しさは必要ではないかと思います。

「簡単生花」「楽しい生花」「即興生花」。昨今、そんなものばかり目立ちます。商業的に成り立つためには必要なことなのでしょうが。

千日挿花行など、見向きもされないかもしれません。

それでも提案したいのです。

実は、「どうして多くの外国人は生花が修得できないのだろう」と何年も考え続けています。

自然観が違うのか。教材が悪いのか。動機がいけないのか(虚栄心を満たすためとか、金のためとかでやっても、まあ、無理でしょう)。教え方が悪いのか。生花の文化的な価値を本気で考えていないのか。

そもそも生花の指導方法をまともに考えている人がほとんどいません。研究報告などほぼ皆無です。

私は日本語教育に関しては大学院レベルで研究しましたが、日本語教育研究と比べると、生花教育研究など存在しない!と言っていいほどです。

例えば、豪州で日本語教師になるためには大学院レベルで数年間、日本語教授法の勉強をしなければいけません。日本語の勉強ではなく、日本語の指導方法の勉強です。日本語の能力と日本語指導の能力は全く別物。日本語能力だけでいいなら、日本人誰でも豪州の教壇に立てることになります。肝心なのは、指導力です。日本ですと、場合によっては、英語がネイティブだというだけで教壇に立てるということがあったかもしれませんが。

生花教師になるためには、生花の勉強は求められるでしょうが、生花指導方法の勉強までは求められないでしょう。というか、生花指導方法の研究自体、ほぼ皆無なのです。勉強の術がないのです。母語話者だというだけで日本の教壇に立つ外国人と同じような立場の方ばかりなのです。

ですから、私が直面する問題、「いかに外国人に生花を教えたらいいのか」、に対しては、自分で仮説を立てて、検証していくしかありません。

私の仮説ですが、おそらく現在の生花指導がうまくいっていない理由は二つあると思います。この二つとも近代生花(現在、主流となっているいくつかの華道流派)の成立に関係があるように思います。

ひとつは、生花が瞑想体験だということが身についていない。

もうひとつは、生花が稽古を要する、つまり、練習を積み重ねて体得していくものだということが理解されていない。

ですから、現在必要な指導方法の要諦は、第一に、「瞑想の教え方」を含むものであること、次に、稽古という身体的な(頭で理解するものではなく)経験を積み重ねていくものであること、でしょう。

私が主導している生花道場では、それら二つを目指して、生花美学プログラム(瞑想重視)、千日挿花行(稽古重視)という二つのプログラムを提供しています。かなり稀な試みではないかと思います。どんな成果が出るのか、楽しみです。

2022年2月9日

生花デモンストレーションの問題点


 YouTubeなどでも生花デモンストレーションを気軽に視聴できるようになり、ありがたいですね。ただ、ひとつ気がかりな点があります。海外で生花を教えている者からすると、私の生徒など、誤解しかねないな、と思う点があるのです。

それは、デモでは「制作の過程を見せてもらっている」と、単純に思い込むことです。実は、デモというのは、結果なのです。デモでは見せられない試行錯誤や瞑想の段階を踏まえて、その結果、作られたものです。99%、そうだと思います。

例えば、デモでは5分ほどで1作いけ上げる場合があります。しかし、実際は、その5分の過程を見せるために、作者は1時間、あるいはそれ以上、準備したり、変更したり、試行錯誤したりしているものです。それは当然です。

実は、この1時間の試行錯誤、瞑想こそ、本当の制作過程であり、教えなければいけない、見せなければいけないものなのです。

このままでは、生花とは「短時間で直感的に綺麗なものを作るものだ」「サクサクと作り上げていくものなのだ」などと思い込む人が出てくる可能性があるように思います。

その何が問題か、といえば、「生花は深く考えて、瞑想しつつ、作っていくものだ」という重要な点、生花の生命ともいえる点が見落とされる可能性があることです。

私が指導で、常に言っていることは「もっと考えなさい」、この一事です。君は考えていないね。せっかく授業料を払っても、何も考えずに作品を作り続けては、少しも進歩しないよ。立派な免状はもらえても、意味がない。生花という瞑想体験を知らずに、師範だ、マスターだなどと言うんじゃないよ、と。厳しく聞こえるかもしれませんが、誠意を持って教えようとすれば、やむを得ないでしょう。これは外国人に生花を教える難しさをあれこれ考えてきた私の、生花の現状に対する提言でもあります。

では、どうすればいいのか?

生花指導に新しい方法を採用することでしょう。
制作過程における瞑想の重要さを強調するような教え方に変えていくことです。

例えば、ひとつの作品を5分で仕上げるデモのようなものを教材とするのではなく(そんなものは腐る程ありますね。「5分で作る簡単生花」といった類のビデオとか)、実際、その作品を作るのに要した1時間以上もの試行錯誤、それを瞑想として、意味あるものとして、教えるということに方向転換しなければいけません。通常は、その試行錯誤を無駄なもの、見せたくないものとして編集して、削除してしまうのでしょうが。

そんなことに気づいて取り組んでいる方はあまりいないようなので、自分でやるしかないでしょう。生花道場ではそんな困難な試みを目指しています。

https://www.shoso.com.au 

2021年12月9日

生け花と第二言語習得論

 


学校の英語の授業を受けても英語は話せるようにはならない。英会話を身につけたければ、英会話教室へ。

これは私が日本で学校教育を受けた頃の常識でした(私は大学までは日本です)。昔の話なので、最近はどうなのかわかりません。

学校英語と英会話教室の英語。どうも違いがあるなあ、というのは多くの方が感じておられたことでしょう。いろいろな意見があることでしょうが、大学院で第二言語習得論を少しかじった者からすると、この違いにはとても重要な意味があります。

簡単に説明します。言語教授法の歴史上、学校英語というのは文法翻訳教授法、オーディオ・リンガル法に基づいた指導です。19世紀から60年代くらいまでの指導理念に基づいています。要するに文法重視、ドリルをやって、ネィティブの音声を真似する。根本にあるのは、意識を鍛えて言葉を教えようという考え方。言語習得は習慣形成の結果で、目標は「言葉を教える」ということです。

英会話教室というのは、成功している学校の多くの場合、70年代以降、主流となったコミュニカティブ・アプローチを採用しています。目標は「言葉を使わせる」ことです。最終的な目的は言葉を覚えることではない。言葉を使って何ができるのか、そこを重視します。たとえ完全な外国語でなくても、外国語を使って、切符が買えた、商売が成立した、実際に何か成し遂げることができたなら、それを評価するわけです。そのような言語活動、タスク中心の指導をしていこう、というのがひとつの方針です。

この違いが分かっていない言語教師は問題です。例えば、オーストラリアにおける日本語教育は日本の英語教育と比べはるかに幸運な状況で発展してきています。コミュニカティブ・アプローチが主流で、そこを基に進化しています。ほんの数年日本語を学んだだけだという外国人が上手に日本語を話すのに驚いたことはありませんか?おそらくはコミュニカティブ・アプローチの成果です。

ところが、うちの生徒は歌やゲームを使って短時間でこれだけの単語数を楽しく覚えたとか、そんなことばかり自慢している日本語教師がいます。それを悪いとは言えないでしょうが(悪いと言った方がいいのですが)、重要なのは、テストの点ではないのです。言葉を使って何が実際にできたのか、です。

言葉を「覚えさせる」ことから、言葉を「使わせる」ことへ、という発想の転換ができない教師は、迷惑な化石のような存在。たとえ生徒から人気があっても、21世においては無用で無能な教師です。

コミュニカティブ・アプローチへの転換には、おそらく意識を鍛えるという発想から無意識を含めて鍛えようという発想の転換があったように思います。たとえ教えていない言葉であっても、状況から生徒はその新しい言葉を理解するものです。それはとても重要なことです。言語習得は無意識の領域で生成する創造的なものです。

さて、生け花です。

なぜ、海外の生け花はこれほどレベルが低いのか?

日本には数千の花道流派が存在するようですが、この問題をきちんと考えているところは存在しないように思います。私の論考が注目されることも当面なさそうです。

ふと思うのは、生け花の指導において、学校英語的な指導がなされているのではないか、ということ。型とかデザインとか意識のレベルで認知できることを指導することが中心なのではないでしょうか。

英語教育の目標は、言葉を覚えることではなくて、言葉を使って何が実際にできるかだ、とはっきりしてから指導方法が変わっていったのです。意識レベルの学習から、無意識を含む全人的な学習へ、と。

生け花では、花を使って瞑想できるか否か、その結果が作品になるのです。無意識の働きが大きく関わってきます。さらに突き詰めるなら、生け花の目的は、デザインの優れた作品を作ることというよりも、花を通じて瞑想を深めることなのです。意識から無意識へと焦点を転換させなければいけません。

ところが、海外においては瞑想ということができていないように思います。外国人の多くは生け花を意識の次元で解釈し、まるで西洋フラワーアレンジメントの延長として、デザインの問題として学ぼうとしているように思います。生け花風の作品は出てくるでしょうが、瞑想に基づく生命のある花は出てこないでしょう。

最近、井上治先生国際いけ花学会会長)が、華道とは禅だ、という趣旨の著作を出版されました。とてもタイムリーな出版です。たくさんの方に読まれるといいなと思います。いつかこの著作についてもきちんと考えてみたいと思います。基本的には私の主張と同調です。井上先生とは連日メールでやりとりしていますが、このような立ち入った話はあまりしていないのです。それでも不思議と現代生け花の最大の問題点として、同じ課題(つまり、禅的性格あるいは瞑想体験の欠落)に対峙しているということは、嬉しい発見でしたし、とても力を得た思いです。

さて、瞑想しなさい、無意識を働かせなさい、と言うのは容易ですが、どのように指導していったらいいのか。そのような取り組みは現在、存在しないのではないでしょうか。

特に自由花の指導が問題です。

指導理論がないものですから、多くの流派で縦に伸びる形、とか横に伸びる形とかトピックを作り、作例を示して指導しています。このような指導書で生け花が上達するはずがありません。生気を欠いた駄作が生産され続けるだけです。

海外でも生け花の学習者が増えて、流派の収入が増えれば、それで十分。そんなことでは、生け花の生命は失われてしまいます。

指導しなければいけないのは、作例という結果ではなく、そこへ到るプロセスです。制作過程における瞑想体験を身につけてもらうことです。

そのようなことを考えて、生花道場では制作過程を重視した指導を導入することにしました。初めての試みですから、試行錯誤しながら取り組んでいこうと思います。

生花道場の取り組みについては他のところでも発表していく予定です。

2021年11月18日

生け花と嗜好

 


フランスの社会学者、Bourdieuの"The Rules of Art" は、手強い本ですが、名著とされています。私にとっては専門外の本ですが、自由花運動の分析の際、参考にさせてもらいました。その論考は、京都芸術大学から出版される書籍の一章に加えられるようです。

専門外のことに口を出すのはかなり怖いことだと承知していますので、いろいろ言い訳めいたことを言いたくなります。日本語版が入手できなかったので、英語で読み、それをもとに日本語で論文を書いた、などなどいろいろハンディがあったわけです。

ま、それはともかく、最近、気になった事があったので、ここにメモしておきます。いつか、もっと大きいものに膨らんでいくかもしれません。

Bourdieuの分析は、早い話、社会階層と芸術の嗜好が関連しているということ。上流階級が知的な純粋芸術、クラシック音楽を好み、中産階級、無産階級が大衆芸術、大衆音楽を好む。さらにクラシック音楽を好む子供が、気づくと上流階級に、ロックを好む上流階級の子供が成長すると無産階級に移行しているという原因と結果が逆転するようなことも起こり得ます。

嗜好というのは、思っている以上に不思議で、強力な力を持つものであるようです。

ただ、私が今、考えていることは、嗜好の問題として解釈していいのか。よくわからないのです。

それは、例えば、海外における生け花の現状についてです。

このブログで何度か書いてきましたが、日本人にはなかなか真似のできない生け花がよく存在します。失礼なことは書きたくないので、表現が難しいのですが、個性の強い生け花です。わかる方にはわかっていただけるでしょう。

それについてあれこれ考えてきました。この非詩的な生け花はどこから生じるのか、どうしたらうまく指導できるのか、と。さらに、自分なりの対応策を目指し、(私の考える)生け花の詩性を学んでもらいたいと、生け花コースまで作ってしまいました。

しかし、非詩的な花が多くの方に支持されるなら、そして、作者も満足、鑑賞者も満足、という状況なら、これをなんとかしようという私の立場に、意味があるのでしょうか?

例えば、ラップが好きだという若者に向かって、「そんなもの音楽じゃないよ。音楽の生命がない。モーツァルトを聞きなさい」などと言って笑われる老人に似ていないでしょうか?彼らにとっては、それこそが音楽なのです。新しい音楽として生きており、クラシック音楽はそこに音楽の本質があるかもしれないけれど、屍に過ぎない、興味はわかないということでしょう。

結局、他人の嗜好にあれこれ言っても仕方ないということでしょうか。海外における非詩的な生け花も生け花の新しい形なのかもしれません。

Bourdieuに戻ると、彼は、特定の芸術について、あれがいい、これがいいと議論し、闘争する「場」があって、そこからその時代に特有の芸術の定義が生まれるというようなことも書いています。

とすると、成り行き任せではなく、この生け花の「場」において、あれこれ発言してみる、批判してみる、そこに何か意味があるのかもしれません。たとえ敵を作ったり、嫌われたりするということがあったとしても。それは、先人も皆通ってきたプロセスなのです。

2021年10月31日

Zoom 生花道場、レベル3

 


生花道場はのんびりと続けています。

レベル1では、自由型でデザイン要素、デザイン原理を8回で導入。

レベル2では、基本型を復習しながらデザインの基本を8回再確認。

レベル3では、デザインから離れるということを目指して8回の予定。

ともかくこのコースの根本を作ってしまいたかったので、全24課程とし、一区切りしようと思っています。その後で、いろいろ改変していけばいいでしょう。

既存の生花コースとはかなり違うものになっているのではないかと思います。

なんと言っても体系的で、理論的に整然としています。

海外で生花を教えてきた私が経験した指導上の難しさをどう克服するか、その問題への一つの回答になっています。

レベル1、2はともかく、レベル3のコースに関しては、なかなか最終的な形が決まりませんでした。発表までにかなり時間がかかってしまいました。

いくつか論文エッセーを仕上げ、考え続けてきたことがようやく形になりました。

生花の自由型に関してはまともな教程は存在しないように思います。というか、きちんとしたものを提出した流派、指導者はいないのではないでしょうか?もちろん私は数千ある流派の教本を全て調べたわけではないですが。主要な流派の教本を見る限り、はっきり申し上げて、かなり雑です。海外の学習者のニーズには合っていません。履修してお金を払えば、師範やら教授やら様々な立派な称号はいただけるのでしょうが、本物の力がつくというわけではないのではないでしょうか。便宜的に、数合わせのために教程を組んでいるだけなのではないかと思われるものまであります。

また、既存の流派の教本を元に作った教程を自分の教程として販売している方もありますが、そこには新しいものを作って行こうという意志などほとんどありません。

さらに問題なのは、既存の教程を終え、指導者の立場になった場合、教える力が同時についているということがないだろうと思われることです。あのような全体像が不明瞭な教本で指導しようとしても、指導の方法について示唆は得られないでしょう。もちろん、例外的に教師として有能な方も稀に現れるでしょうが。

傲慢に聞こえるかもしれませんが、今後の、国際社会での生花のことを本気で考えるなら、この程度の批判は遠慮する必要はないでしょうし、許してももらえるでしょう。もちろん、生花の現状を批判する以上、批判されることも覚悟しないといけないでしょうが。

しかし、いくら自分でいい教程だと主張しても、「美術修士、教育学博士が作ったコースだ」などと(恥ずかしげもなく)宣伝しても、取り組んでくれる方がいない以上、意味がないでしょう。一人でも参加して下さる方があれば、続けてみて、改変しつつ、史上最強の生花コースにしていこう、この教程は今後、多くの生花コース改変のきっかけになるかもしれないよ、などとスタッフに大言壮語していました。

幸い広報初日に数件申し込みがあり、これなら参加者から色々声を聞きながら取り組んでいけるかな、と思っているところです。

2021年10月15日

外国人に生け花を教える難しさ(6)


外国人に生け花を教える難しさ、ということで何回か考えてきました。

https://ikebana-shoso.blogspot.com/search/label/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA 

その難しさの原因は何だろう、どうしたらあの独特で強烈な癖(失礼!)が矯正できるのだろう?と、あれこれ考えてきました。

ひとつのことを考えだすと、あれこれと仮説が出てきたり、あれやこれやとつながってきたりするのがいつものことです。すると、ひとつのエッセーができたりします。ちょうど著名なオンライン・ジャーナルからメルボルン生け花フェスティバルの広報を兼ねて、寄稿しないか、と誘われたので、以下のような記事を掲載してもらいました。よければ読んでみてください。


私のひとつの仮説は、生け花をデザインとして解析し、制作しようとするところから非詩的な生け花が生まれるのではないか、というもの。非詩的などと仮に名付けてみましたが、近代生け花の大家、山根翠堂なら「死花」と切り捨ててしまったかもしれません。

説明は難しいですが、生け花の花が造花と変わりないような生け花作品。あるいは、造花で作った方がいいのではないか、というような生け花作品でしょうか。

生命のない生け花、即ち詩性のない生け花ができるのはなぜか?

原因は、生け花はデザイン、つまり人為による知的な工芸品である、つまり、生け花は作者、人を表現するものだという考えに由来するのではないでしょうか。西洋のフラワーアレンジメントは、そうした考えに基づいているように私には思えます。

つまり、素材の本質(すなわち自然)を表現しようというのではなく、素材に「人が何をしたか」を表現したいということ。そこを面白がっているのです。作者が直感した自然、その深さではなく、人やそのテクニックが関心の対象なのです。西洋のフラワーアレンジメントの延長として生け花を学んでいるという外国人も多いのかもしれません。両者は根本に大きな違いがあると思いますが、どれだけの人がそれを認識しているでしょうか。

このような自然より人を優先する態度は、戦前、西洋モダニズムが日本に紹介された際、その中心思想のひとつとして日本の生け花界に影響を与えました。現在、西洋ではモダニズムは反省と批判の対象でしかないですが、日本の生け花の多くは、今だにモダニズムのアプローチの主張を繰り返しています。そろそろ目覚めて欲しいものです。正直なところ、私はうんざりしています。

しかし、ふと、思うのは、日本ではそれでいいのかもしれないということ。

日本人にいくら「人を表現しろ」と教えても、日本人は自然に、作品に「自然」が入ってくるのではないでしょうか。修行を積むにつれ、生きた花になっていくのではないでしょうか。

しかし、日本人には自然なこの推移が、外国人には難しいのかもしれないのです。
外国人に「人を表現しろ」と教えると、本当に、人だけになってしまい、死花のまま、なかなか生きた花にならないということではないか。

もし、そうだとすると、自然に対する態度において、日本人とは重要な違いがあるのかもしれない、などとまで考えてしまいす。

しかし、このような仮説自体、カルチャル・ナショナリズムと批判されかねない意見です。決して、あからさまに、うかつに公言してはいけません。そこは承知しつつも、どうしたらいいのだろうと、悩む日々なのです。

2021年6月19日

外国人に生け花を教える難しさ(5)

 

何度もお断りしていますが、外国人の中にはとても生花が上手な方がいらっしゃいます。それはまずきちんと確認しておきたいと思います。

それでも、時々、「これは外国人の作品だな、日本人はこういう作品は作らないな」と思うことがあるのです。それが、私の生徒の場合、どのように指導したらいいのだろう、と悩むことになります。

ひとつ特徴的なのは、線の硬さ。まあ、例えば、直立不動(気をつけ!)のままダンスを踊っている感じです。不自然で、硬いなあと感じます。詩性も楽しさも感じられません。

もしかすると、「生花は自己表現」だという教えを勘違いしているのではないでしょうか。

「生花は自己表現」だという主張は1920年代頃から日本の生花の世界でなされているものです。西洋芸術のモダニズムの影響でしょう。つまり、西洋の考え方を日本人向けに紹介した教えです。

生花とは自然素材を尊重しつつ、自然の美しさを表現するものという前提があって、それを踏まえて、そこに自己主張も加えてみませんか、という程度の理解で受けとられたのかもしれません。というのは、とことん自己表現だけの(素材の自然性を完全否定した)生花はあまり存在しないように思うからです。基本的に自然素材の持っている面白さ、美しさを発見したなら、それをあえて壊すようなことはしないだろうと思うのです。

自己を表現した生花、と言っても、そこに表現された自己とは、自然の一部としての自己かもしれません。自分も自然の一部だと認識しつつ、自然素材の持つ味、線、動きを尊重しつつ、制作していくわけで、人と自然の共同作業のようなもの。

おそらくその創造過程の理想は無私の境地ではないでしょうか。深い瞑想状態とも言えるでしょう。生花の創造体験の一番深いところですが、皆さん、いろいろな表現でそれを説明してくださっています。「花と話しつついけていく」とか、「花と一体になっていけるのだ」とか。私なら「頭で作るな、無意識で作ろう」とでも言うかもしれません。華道史上、稀有の華道家であった山根翠堂は次のように書いています。

「花をいける人の心が、花の心に同化して、花のように美しい心にならなければ、決して、その本来の使命に忠実な、真に芸術的な『いけ花』はできません」(「花に生きる人たちへ」)

「同化」という言葉の意味は深いと思います。花は素材という客観的対象以上の存在になるのです。

ところが、ことに戦後、海外にも生花学習者が増えていきます。

そこで「生花は自己表現だ」という教えを伝えた場合、本来自分たちの考え方が戻ってきているわけです。日本文化だと思って生花を始めてみたら、中身は西洋文化じゃないか、と。自然は制作のための素材でしかない、ということがそのまま受け取られます。日本では前提としてあった自然観がないわけです。

自分は自分、自然は素材。人と自然は断絶しています。

この指摘は多くの著名な方々が、日本人の自然観対西洋人の自然観として書いていることと共通しています。おそらくそのような日本人論を読んだことがあるという方も多いでしょう。実は、それはあまりに紋切り型で、単純すぎる対比です。日本国外でそんな話をしたら、誰にも相手にされません。

しかし、こと「生花は自己表現だ」という主張の解釈について考えていくと、この紋切り型の比較が参考になるように思います。

では、外国人にどう教えていくべきか。

まず、外国人には「生花は自己表現だ」などということは言わない方がいいでしょう。それは自然を尊重する表現ができた後で、ゆっくり考えて貰えばいいことなのです。「花を愛さなくても生花はできるんだぜ」というような本を出している外国人がいます。こういう勘違いが起きないようにするためにも、これは大切なことだと思います。こういう生花教師を輩出している流派はその指導に検討すべき点があるのかもしれません。

次に、もっと花を見つめなさい、瞑想しなさい、ということを強調して指導していくことかな、と思います。最近、その趣旨で英語であれこれ書いてみました。そういう指導ができないと、海外では私たちはまともな生花を教え、伝えていくことができないように思うからです。生花を教えるということの本質は、生花が瞑想だということを教えることだと思います。

おそらくこれは日本国内ではそれほど意識しなくてもいいことだと思います。説明しなくても生徒は自然に瞑想体験を身につけていくのではないでしょうか。生花とは「本来そういうもの」だからです。しかし、外国人に生花を教える際には、最大の障壁になるように思います。

最近、ある生徒から、もっと別な方法で指導してくれとあれこれ言われたことがあります。この障壁の手前で迷っている生徒の一人です。

その希望をよく考えてみたところ、彼女の生花理解がわかってきました。おそらくいろいろなデザインの型を覚え、花という材料をそれに当てはめて生花を作るのだと考えているようなのです。自分の頭にある型、それを表現するために花を素材(客観的な対象)として使う。そのためにいろいろな効果的な型を教えてくれということに行き着くのです。先に書いた西洋人的自然観による生花理解の典型です。基本型の勉強はそのような態度で始めることになるでしょうが、自由型に移って、数年したならば(ましてや師範をとったならば)、そのような、頭だけで作ろうという態度ではいけません。生花の本質に至ることはできません。

生花のデザインは自分の頭から捻り出すのではなく、むしろ無私の境地で素材から(あるいは自分の無意識から)抽出するものだと教えたいものです。そこには、花との共同作業、一体化、同化、といった瞑想体験が必要です。花を客観的対象として見ているだけでは到達できない境地です。生徒がそこを理解し、体得できるかどうか。そこがポイントのような気がします。

デザインという結果ばかりをみていてはいけない。過程を重視しなさい。

生花はデザインじゃない。

生花は瞑想なんだと、強調していくことでしょう。

それで生徒が離れていくなら、仕方ないですね。金のためだけに生花指導をやっているわけではないのです。譲れないものは譲れません。

もしかすると、生徒は自然観の変更を迫られるかもしれません。その変更が可能なら、生花を海外に広める意義はとても大きいように思います。


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2020年12月21日

専応口伝と異文化における生花

 


「瓶に花をさす事、いにしえよりあるとはききはべれど、それはうつくしき花をのみ賞して、草木の風興をもわきまえずたださしいけたるばかりなり」

専応はこの口伝の序文で、生花の誕生を宣言しています。上記の引用は、生花誕生以前の状況を語っているわけです。花の美しさだけをありがたがっている、草木の面白さに気づいてもいない、と。そういう人々とは決別して、生花を誕生させたんだよ、と。

ふと、思ったのは、海外で華道家としている活動している私の現状と生花誕生以前の状況が似ているではないか!ということ。

ありがたいことに私は商業花の依頼もよくいただいています。この写真のような花も作ります。クライアントの満足を第一に考えなければいけません。

日本とは違います。草木の風興をわきまえていない方も多いのです。

もっと花を入れてくれ、もっとカラフルに、長持ちさせてくれ、いろいろなリクエストがありますが、生花が根本からわかっていない方がクライアントの場合、困ることが多いのです。ひどい時には、不愉快な経験をすることもあります。

生花の修養を積めば積むほど、クライアントのニーズから離れていく、時にそんな思いを持つことさえあります。これはなかなか辛い。

私の言うクライアントとは生花の生徒も含まれます。

生花の本質的なところを教えようとすれば、生徒から煙たがられる、そういうこともあります。生花の本質的なところは基本型にある、というのが私の考えです。枝物2、3本、花2、3本で生花の原理を体現していく、その辺りに生花の本質があるのではないかと。

Zoom Ikebana Dojo では、そのような試みをしています。

しかし、このブログで何度も書いてきたことですが、外国人の生徒の多くは、基本型の勉強を厭う傾向にあります。

逆説的ですが、そこにはメリットもあるかもしれません。かなり意地悪な見方ですが、外国人の多くは基本型を厭う、故に、生花がなかなか上達しない、故に、生花学習者に止まり続ける。それは日本の先生には都合が良いのかもしれません。あまりにたくさん上手な方が出てくるということになっては、先生の商売が成り立たないではないですか!生花文化の振興と、家元制度という経済機構の発展には、微妙な関係があるのかもしれません。

以前、日本の著名な華道家のデモンストレーションを当地で拝見したことがあります。色々考え込んでしまいました。当初は、ご自分の本当の最高のところは見せてくださらないのだな、厳しく言えば、手を抜いているな、と思いました。しかし、観客を草木の風興をわきまえていない方々と想定し、そうした方々にどのように楽しんでいただけるか、と考えてのデモンストレーションであったということかもしれません。

草木の風興をわきまえていない方々の中にあって、専応や専応の先人たちは道を開いて行ったわけでしょう。その苦労は、もしかすると、私たち海外で生花に関わる者にはより共感できるものであるかもしれません。


2020年11月18日

Zoom 生花道場カリキュラム:人気のない基本型

 


Zoom 生花道場のカリキュラムには基本型を含めたい、と思っていました。

このブログでも何度か生花の基本型について書いてきました。生花を外国人に教える難しさについて、ということで。

基本型を厭う生徒が多いことと、我流生花が多いこととは関係があるように思えてなりません。調和のとれた詩的な基本型が作れない方には、調和のとれた詩的な自由花は作れないはずです。実は、基本型を嫌がる方こそ、基本型をもっと練習しなければいけない!そういう場合が多いのです。

しかし、嫌がりますね。「もっと基本型をやらないといけないよ」とアドバイスしようものなら、まるで「侮辱された!」とでもいうような反応が返ってくることもあります。しつこくやらせたら、教室をやめていった生徒がいたという話もこのブログで書いたことがあります。

それにしても強調したいのは基本型の重要性。

基本型には生花の詩性の根本が含まれています。そこを体得しないことには、おかしな方向へ行ってしまうのではないか?その習得不足が、諸問題の元凶のひとつかもしれない、とまで思ってしまいます。

Zoom 生花道場のカリキュラムではレベル2で基本型を導入し、8回作ってもらいます。ここで、生花道場のカリキュラムについて、少し説明しておきましょう。レベル1、2、3と、とりあえず3段階用意しています。それぞれ8回のクラスから成り立っています。

レベル1では、生花デザイン原理、生花デザイン要素を優先した基本的な自由花。生花を学ぶということは、「花を花として見ることをやめる」ということです。初めから花の本質を見ることを学んで欲しいのです。専応のいう、花や葉の「よろしき面影」を見出し、瞑想する訓練の始まりです。

レベル2で、基本型の習得(上級者にとっては復習と発展)。レベル2になると、受講者の数が増えない、という予想通りの状況です。面白いですね。しかし、ここが一番やりたかった部分なのですが。

レベル2で使う花型に各流派の既存の基本型を使うのは問題でしょうから、自分で新たに考案しました。生花の基本型とは、多くの流派で似通っていながら、若干違うという現状であるようなので、その方針でいくつか作っておきました。説明の仕方もかなり独自の方法でやっています。それは将来的な発展を踏まえてのこと。基本型で習ったことを将来どのように使えばいいのか、ということを射程に入れて組み立てています。

レベル2は、生徒にとっても私にとっても忍耐を要する段階です。ここを通過することで、幾らかでも生花のレベル向上に貢献できないか、我流生花の蔓延を抑制できないか(大袈裟ですが!)と願っています。我流生花が流行っても、それでお金が儲かればよいという方には問題ないのでしょうが、華道文化のことを思えば、なんとかしたくなります。山根翠堂のいう「死花」ばかりが生花として溢れているというような事態は、できれば避けたいもの。せっかく取り組む以上、そのくらいの抱負はもちたいですね。

レベル2で気づくのはやはり基本型への嫌悪。特に上級者には多少自分流にアレンジしていいよ、としてるのですが、多くの方が自由型にしてしまいます。しかも、行き過ぎている場合が多い。その結果、基本型に備わっている詩性は失われています。これではなんのための基本型の復習なのか、と残念な思いをすることがあります。本当の上級者以外、きちんと復習に徹した方が生花道場の趣旨を活かすことになるでしょう。

レベル3では少し高度な自由花へのヒントを含めることになるでしょう。生徒が喜ぶクラス、というのは見当がつきます。そういうクラスもレベル3辺りには含められたら、と思います。おそらくその辺りになるとまた人気が出てくるかもしれません。

オンライン講座で成功しよう、儲けようと思ったら、人気のトピックを調べて、そういうものだけをやる方が賢明でしょう。基本型をやったり、「生花のデザイン原理とは〜」などと深入りするのは、労多く、利がすくない。そう分かっていても、妥協できないものがあります。

ともかく、Zoom 生花道場は、私にとって何かと勉強になるプロジェクトです。なかなか大変ですが。

2020年6月17日

生花道場カリキュラム



コロナの影響もあってオンラインで生け花指導ができないか、と考えはじめました。
すでに多く方が取り組んでおられますね。
あまり大きな期待も持たず、気楽に始めたのですが、これが大変なことに!
頭を絞りに絞る、大変な時間を食うプロジェクト、生花道場になりました。

おそらくもっと楽で、いい加減な方法もあったと思うのです。
あまり儲からないプロジェクトなのだから、と割り切れば。

Zoomをどう効果的に使うか?
私が関わっている他のプログラム、生け花ギャラリー賞和メルボルン生け花フェスティバルとどう関連付けるか?
タダで教材を公開し、どこで収益を出すか?
既存の多数の流派の指導とどのように競合を避けるか(小さいプロジェクトですからそんな心配は不要なのですが)?
カリキュラムがないと教育効果が上がらない。ではそれをどう作るか?他の方がやっているように基本型1、2、3などと作っていくか?
私個人が全て取り仕切るのはなく、できるだけ早く私のスタッフに主導権を渡したい。そのためにはどのようなシステムがいいのか?
ゲスト・ファシリテーターをお招きすれば謝礼も出したい。しかし、希望される謝礼の額はみな異なる。これにどう対処するか?
結局、このプロジェクトの目標は何なのだ?
さらに、つまるところ自分は生け花で何がしたいのか?

最後は自分の存在理由まで自問することになりました。
まったくあきれてしまいます。

まずは、この生花道場プロジェクトに関する自分の考えを書き出していったところ、一つの小論ができてしまいました。英文もほぼできあがっているので、こちらも間もなく発表します。

多くの方にご協力を依頼する以上、私の意図、プロジェクトの意義をきちんと説明するのが礼儀でしょうから、これは最初に必要なことだったのです。

参加して下さる方にも説明は必要でしょう。どうも通常の生け花コースとは違うようだが、何を考えて企画しているのだろう?お金を出して参加して大丈夫だろうか?などという疑問はきっとおありでしょう。

ある専門家の方にまず読んでいただいたところ、素晴らしいとお褒めいただき、気を良くしたのですが、同時に改定すべき点を多数指摘していただきました。本当にありがたいです。過激なところは可能な限り削ったのですが、まだまだ取扱注意を要する部分がありますね。学問の世界では批判は当たり前、血も涙もない厳しい世界ですが、生け花の世界ではどうもそのようにはなっていないようです。意図せず他人を傷つけたりすることがないか、気をつないといけないようです。

おひまなときにでもお読みいただければ幸いです。リンクは2つ用意しました。


短期公開講座におけるいけ花紹介案:デザイン理論と「専応口伝」

新保逍滄

要旨

現在、日本国外におけるいけ花人口は必ずしも増大しているとは言えないだろう。いけ花の国際的な浸透を妨げている可能性のある諸要因の中から、ここではいけ花の目的とその指導方法に注目してみたい。それらが受け入れ側のニーズに合っていないということはないであろうか。オーストラリアの大学における短期公開講座でいけ花紹介を導入する際に、問題となる現状、その対策として実践している事項を報告したい。いけ花の目的としては、環境問題の深刻化から従来とは別の側面、その環境芸術としての側面に注目してもいいのではないだろうか。また、指導カリキュラムについては、伝統的な指導方法の意義を認めつつも、外国人になじみのある視覚デザイン理論を用い、基礎レベルへの案内となるカリキュラムを提示してみたい。このカリキュラムの元となる理論は「専応口伝」の洞察に近似したものであることも示したい。


2020年4月9日

外国人に生け花を教える難しさ(4)


海外で生け花を教える苦労について、あれこれ書いてきました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/09/blog-post_3.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/11/blog-post.html

今回はもう一つの重要なこと。あまりはっきり語りたくない方もあるでしょうが、お金のこと。お金に関して私が難しいなと思ったこと、反省したことなどを少しだけ紹介します。

おそらくお金を儲けようと、それが最大の動機で生け花指導をするという人はあまりないでしょう。第一、それほど儲かりません。他にもっと楽に儲かる方法があるでしょうね。

主要な指導動機の一つは、生徒と親しい関係、協力的な関係を楽しみたいということだと思うのです。私が、現在、自分の人生を豊かにし、支えてくれている女性三人を挙げるとすれば、母親、家内、仕事上のパートナー、となるでしょうが、四人目以降には私の生け花の生徒さんらが続きます。そうした良好な関係を長く築いていくために気をつけるべき点はたくさんあります。やはり、品性下劣、他人の悪口ばかり言っているというような先生からは誰も習いたくないでしょう。

そして、そうした先生の態度や生き様とともに、もう一つ重要なのは、お金のこと。
注意しないと生徒との関係を傷つけることにもなりかねません。
私自身、苦い思いをしつつ学んだことがいくつもあります。
生徒の方で配慮してくれ、などという態度は通用しません。
日本とは違います。

特に、指導料の設定には苦労してきました。
何度も改定しています。
どれほど苦労して詳細に決めても、どこかに抜け穴があったり、
思いもしない解釈をされたり、
生徒へのやむを得ない場合の「特例のサービス」(お情けというか配慮)のつもりが、生徒からは「権利」のような解釈をされたり。
言わなくてもわかってもらえる、などということはありえません。

生徒から誤解が出る、2通りの解釈が生じるなどというのは100%先生の責任と思うべきです。ですから私は生徒を非難はできない、自分の責任と覚悟はしていますが、難しいと思うことが多いのです。
生徒のためにと思って、サービスを与えたり、寛容になればなるほど、結果的に、期待していたのとは反対の、落胆するようなことになることが多いように思います。お金を頂く者がそんなことを言っても、愚痴にしかならないでしょうが。
海外ですから、お金に対しては厳しい方が多いのは当然。
日本と同じような態度ではいけないでしょう。

また、日本の芸道の世界では当然とされているような先生に対する敬意や礼儀は、残念ながら海外で教える私たちは享受できない、と思ったほうがいいようです。
「何を偉ぶっているんだ?正規の学位があるわけじゃない、たかが花のインストラクターじゃないか」と、実際、そこまでは言わないでしょうが、その程度の認識と覚悟することも必要でしょう。

ともかく、お勧めしたいのは、料金体系はできるだけシンプルであること。
特例やら割引やら、そうしたことは好意であっても、おそらく誤解の元。
提示した、決まった額を淡々とビジネスライクに頂く。それだけの方がいいと思います。

最近経験した問題点を一つ紹介しましょう。
少し長くなるかもしれないので、また、次の機会に続けます。

2020年3月26日

自由花における詩性とは何か?(2)


とても大きなトピックを選んでしまいました。

第1回目は以下です。

どこかへたどり着けるのでしょうか?
一般に、あれこれ難しいことをつぶやきながら、結局、何のまとまりもなく、しり切れとんぼ、などということはよくあるようです。
ブログとはその程度のものが多い。

幸い、私の場合、一つの論文程度のものにはかろうじてたどり着いていますから(拙いながら)、続けてみようと思います。時間はかかるかもしれませんが。

以下は前回書いたことへの補足です。

以前このブログのどこかでも書いたことがあると思うのですが、
生け花と芸術の違いについて確認しておきます。

生け花と芸術(具体的には彫刻など)の違いは、
俳句と小説の違いに似ています。

有名な俳句、何でもいいです。
古池や蛙とびこむ水の音
動と静の対比、見事に詩性が達成できているように思います。
その面白さ、そこに立ち現れる世界、おそらく多くの日本人が共感できるものだと思います。感性的な面白さを狙っているのでしょう。

小説とは少々目指すものが違います。
小説は意味生産装置です。

俳句 / 小説
生け花 / 彫刻

生け花とは俳句的であり、彫刻とは小説的です。
つまり、生け花が詩性を求めるのに対し、芸術としての彫刻は意味を求めるということ。
生け花は限られた場合でしか意味が問題にされないので、一般には芸術には含まれないと言っていいと思います。

しかし、ただのクラフトか、ただのデザインか、となると、その領域を超えています。

例えば、アップルのロゴ。
とても洗練された、計算されたデザインです。
ある種の詩性に近いものはあると思います。

しかし、生け花は自然素材を扱うということ、
その扱いにおいて作者の態度が表出されるというところが特徴です。
そこがデザインを超えていく部分です。
詩性が生まれる部分です。

重要なのは、作者の態度、感性。
するとそれを磨く過程、修行ということも重要になってきます。
そこに、環境美学、さらに倫理の問題も重なってくるのではないか、
そのあたりを考えているところです。

俳句が日本文化圏で発達したということと
生け花もまた日本文化圏で発達したということにも注意が必要かもしれません。

生け花を外国人に教える難しさには
俳句を外国人に教える難しさに共通するものがあるのかもしれません。

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